毎日1偉人 古代ギリシアの女流詩人「サッポー」
こんにちは!Amatoです。
本日の毎日1偉人は、
古代ギリシアの女流詩人「サッポー」です。
サッポー(紀元前630頃~紀元前570頃)
サッポーはレスボス島に生まれた女性の詩人です。
彼女は自分の恋愛経験を叙情詩として表現し、その詩は非常に高く評価されています。
サッポーの生涯
サッポーは、エーゲ海に面したレスボス島の貴族の家にに生まれ、その島で人生をほとんどを過ごしました。
実際のところ、彼女の生涯についてはあまり分かっていません。
しかし、当時のレスボス島の状況から予測することができます。
当時のレスボス島は、ギリシアの文化として非常に華麗さに富んだ気風であったとされています。
また、この島の女性たちは、そのような環境で育っていたため、美しいとして有名でした。
ギリシア本土は女性は社会的地位が低いとされていましたが、このレスボス島の女性たちは活発に文化活動を行っていました。
このような背景でサッポーは様々な詩をはぐくむことになったと考えられています。
サッポーは、このレスボス島で文芸や音楽などの文化活動を行い、それを島の女性たちに教育するために学校を作りました。
サッポーの学校は、若い娘しか入学することができず、文芸・音楽・舞踏を始めとする文化についての教育が施されていましたが、具体的な内容についてはあまり分かっていません。
しかし、ギリシア中から女性が集まり、サッポーから学ぼうとしたとされています。
詩の特徴
サッポーの詩には自信の体験をもとにした作品が多数見られます。
その中には、同性愛の表現が含まれたものもありました。
彼女の作品は、愛、嫉妬などの情景を絵のように表現しているとされています。
この自由で情熱的な詩は主に女性に向けて作られています。
一方、男性に向けたものもいくつか見つかっています。
自分が恋をしている女性が、男性と一緒にいるところを見てしまったときの嫉妬心を次のように表現しています。
「冷たい汗が 震える私を包み込む
全身汗に包まれ 私はどんなに青い草よりも青ざめる」
このように心情を非常に鮮明に表現していることが分かります。
サッポーの詩による影響
サッポーが残した詩は 、当時のギリシアだけでなく、彼女の死後も色褪せることなく高い評価を受けています。
彼女の死後100年後に、プラトンはこのサッポーを「十番目のミューズ」と評しました。
このミューズとは、芸術と文学をつかさどる女神で、その女神に匹敵する人物だという表現をしました。
それ以降、オウディウスやカトゥルスなどの詩人も彼女の作品を読み、影響を受けました。
しかし、サッポーの作品の大部分は残っておらず、完全な形で残っているのは「アフロディテ讃歌」のみとなっています。
数多くの作品で人々を魅了し、大きな影響を与えたサッポー。
それは、自らの経験や心情を非常に鮮烈に表現していたからでしょう。
このように、人々を引き付ける文章を残していきたいですね。
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毎日1偉人 旧約聖書の悪女「イゼベル」
こんにちは!Amatoです!
本日の毎日1偉人は、
旧約聖書の悪女「イゼベル」です。
イゼベル(不明)
イゼベルはシドンの王エテバアルの娘で、バアル神を崇拝していました。
彼女は旧約聖書に登場しますが、実際のところ実在したかどうかわかっていません。
イゼベルによるバアル神の布教
イゼベルのバアル神に対する熱心な崇拝は、父の影響が大きかったと考えられています。
エテバアルは、「バアルと共に」という意味であり、バアル信仰の祭司を務めていました。
イゼベルはこの父の影響でバアル神を崇拝するようになり、この信仰を広めようとしました。イゼベルは、イスラエル王国のアハブに嫁ぎました。
アハブが、イスラエルの王に即位して、イゼベルはアハブ王をそそのかし、バアル神を崇拝するように仕向けました。
アハブ王は、バアル神を自ら積極的に拝み、さらにはバアルの祭壇を作り、偶像を建てました。
イゼベルはアハブだけでなく、たくさんの男性を巧みに誘惑し、バアル神の崇拝者を増やしました。
当時、バアル神の崇拝を拒んだイスラエルの預言者たちの中には、殺害されてしまった人もいたそうです。
そのような活動を通して、イスラエルで広く崇拝されていたヤハウェと同等になるほどバアル神が浸透していきました。
その勢いは、 イゼベルの食卓につくバアルの預言者が実に450人となるほどでした。
イゼベルは、異国の神であるバアルをイスラエル中に広めることができた非常に影響力のある女性だったと考えられます。
イゼベルの最期
イゼベルは、アハブとの息子ヨラムが王位を継承したときも、バアル信仰を広めるべく活動しました。
しかし、ヨラムの部下イエフが反抗したのです。
彼は、「アハブの家を滅ぼし、イゼベルによる偶像崇拝と魔術をやめさせよ」という神のお告げを受け取りました。
そのお告げにより、イエフはイゼベルの布教活動を終わらせることにしました。
イエフはヨラム王を殺害し、ついにはイゼベルを追い詰めました。
イエフの命令によって、イゼベルは窓から突き落とされました。
さらには、犬に食いちぎられ死を遂げたのです。
イゼベルは、自らの考えを布教するためにさまざまな活動をしていました。
その行いが正しいかどうかは無視すると、異国の考えをその国に浸透させたことは非常にすごいことだと思います。
強制的ではありましたが、その影響力だけは見習いたいと思います。
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毎日1偉人 数学の父「ピタゴラス」
こんにちは!Amatoです。
今日は本を忘れてしまったので深夜に書くことになりました。
本日の毎日1偉人は、
数学の父「ピタゴラス」です。
ピタゴラス(紀元前580頃~紀元前500頃)
ピタゴラスは、古代ギリシアの数学者です。
彼は、万物の根源は数という信念を持ち、世の中のあらゆる現象を数学で表そうとしました。
ピタゴラスの思想
古代ギリシア哲学では、「万物の根源は何か」という問題が中心的に議論されてきました。
哲学の創始者タレスは「万物の根源は水」だとし、古代哲学の闇の人ヘラクレイトスは「火」だとしました。
一方、ピタゴラスは別の思想を持っていました。
彼は、商人だった父の仕事についていき、各地で数学を学びました。
そこから、さまざまな数学の知識を得たことから、あらゆる現象には「数」が内在しており、すべて数の法則に従うと考え始めました。
このことから、ピタゴラスは音楽の和音の構成から惑星の軌道まで、多くの事象には数の裏付けがあることに気づいていました。
そして、万物はすべて数から成り立つという「万物は数なり」という思想を持ちました。
ピタゴラス教団
ピタゴラスは、あらゆる数学の知識を得て故郷に帰ってきた際に、ピタゴラス教団という宗教結社を設立しました。
彼はその団体によって、数の性質を追求しようとしました。
この団体の団員は、数学と科学を学ぶことによって宇宙を理解し、神に近づくことができると信じていました。
この教団の数学者は、ピタゴラスの定理として知られている「三平方の定理」の照明を行いました。
さらに、無理数や平方根の概念も生み出したのです。
このようにこのピタゴラス教団はさまざまな数学分野の基本的な論理を確立し、発展させました。
ピタゴラスの逸話
ピタゴラスは秘密主義者であったため、生涯についてほとんど知られていません。
しかし、ピタゴラスは様々な逸話が残されています。
それは以下のような内容です。
・タイムトラベルができた
・月に字を描いた
・同時に二つの場所に存在できた
などです。
これらはありそうもない話ですが、現在では確かめようがありません。
ピタゴラスは、旅先でさまざまなことについて学び、それを自らの故郷に持ち帰り、教団としてその知識を分かち合いました。
このインプットとアウトプットの手法は、非常に理にかなっていると思います。
このように、知識を得るだけでなく、アウトプットして発信していきたいですね。
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毎日1偉人 古代哲学の闇の人「ヘラクレイトス」
こんにちは!Amatoです。
最近スヌーズ機能卒業してすっきり起きれるようになりました!
本日の毎日1偉人は、
古代哲学史の闇の人「ヘラクレイトス」です。
ヘラクレイトス( 紀元前540頃~紀元前480頃)
ヘラクレイトスは、古代ギリシアの哲学者です。
彼の持つ思想は非常に難解で、残されている著書は難しい文体を使っていたため、しばしば「暗い人」や「闇の人」と呼ばれています。
ヘラクレイトスの性格
ヘラクレイトスは現在のトルコ西部に位置するエフェソスに生まれました。
彼の家系は王族であり、豊かな貴族の家であったとされています。
ヘラクレイトスの生涯についてはほとんどわかっていません
しかし、現存する著書から、彼は他のギリシア人を非常に軽蔑していたことが分かっています。
特に、自らの住むエフェソスの人への侮辱が強かったとされています。
ヘラクレイトスがそのような性格になったのは、原因がありました。
それは、友人のヘルモドロスがエフェソスの民衆により追放されてしまったことです。
彼は気高い人物であったことから、そのことに怒り、エフェソスの政治から手を引くことにしました。
しかし、エフェソスの人々はヘラクレイトスに政治を任せようと懇願しました。
それでもヘラクレイトスはエフェソスを悪しきものだと認識し、拒否し続けました。
あげくの果てには、子どもたちとサイコロ遊びをしていました。
その姿を見て理由を尋ねると「おまえらと政治にかかわるより、このほうがましだ」と答えたそうです。
さらに、エフェソス市民について「成人はみな首をくくったほうがよい」記したりもしました。
また、古代ギリシアの詩人ホメロスを批評し、「痛めつけられるべきだ」と記しましたりもしました。
ヘラクレイトスの思想
古代ギリシアの哲学者たちは、「万物の起源」について対立していました。
アナクシメネスは宇宙の根源は空気だとし、以前紹介したタレスは水だとしました。
ヘラクレイトスは、万物の根源は火であると考えました。
彼は、火が自然界の根本にあり、万物はこの火から生じているとの立場をとりました。
ヘラクレイトスの考えでは、世界は火でできており、それによって絶えず変化し続けているのです。
この、世界が絶えず変化しているという概念は、ほかの哲学者たちとは対立するものでした。
「万物は流転する」という概念はヘラクレイトスの哲学の根幹を成す思想でした。
ヘラクレイトスの最期
彼は晩年、ついに人間嫌いになりました。
世間から離れた山の中で暮らし、草や葉を食べるようになりました。
ついに、水腫病を患いこのことが原因で死んだと考えられています。
彼の死後、残された著作はのちの哲学者たちに疑問を投げかけ続けました。
彼は、友人のことを大切に思う非常に誇り高い性格でした。
友人のためを思い、自分の住む都市であるエフェソスを嫌うほどでした。
この気高さは見習っていきたいです。
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毎日1偉人 旧約聖書の暴君「ネブカドネザル二世」
こんにちは!Amatoです!
本日で毎日1偉人が2週目に入りました。
本日の毎日1偉人は、
旧約聖書の暴君「ネブカドネザル二世」です。
図:ネブカドネザル二世
引用:Wikipedia
ネブカドネザル二世(紀元前630頃~紀元前562頃)
ネブカドネザル二世は、旧約聖書に登場する主要な悪人の一人で、ユダヤ人をバビロンに強制移住させた人物です。
この強制移住は、「バビロン捕囚」と呼ばれています。
新バビロニア帝国の復興
ネブカドネザル二世は、新バビロニア帝国の建国者ナボポラッサルの長男として生まれました。
当時のバビロニアは、近く位置していた国であるカッシートやアッシリアによって支配されていました。
ネブカドネザル二世の父であるナボポラッサルによって支配から離脱することができ、新しい国として復興することができました。
それ以降、新バビロニア帝国がアッシリアを支配するようになり、近隣の国を攻め始めました。
ネブカドネザル二世は、この父と共に遠征に行ったり、父によって派遣されたりして軍を率いて育てられました。
父ナボポラッサルの死後、ネブカドネザル二世は王位に就き新バビロニア帝国の再建を進めました。
バビロン捕囚
ネブカドネザル二世は近隣の国を次々と攻めました。
その後、彼はユダ王国との戦いに勝利し、当時の王であるエホヤキンを新バビロニア帝国であるバビロンに強制的に連行しました。
その後、エジプトがバビロニアに攻めてきた際、それに乗じてユダ王国も反乱しました。
しかし、ネブカドネザル二世はまたもやユダ王国に勝利し、ユダ王国の神殿などの建物を破壊し、国民のユダヤ人の数千人を首都バビロンに強制移住させました。
それにより、ユダ王国はもはや反乱する力を奪われてしまいました。
この行為のことを「バビロン捕囚」と呼ばれ、彼が「暴君」と呼ばれる所以となりました。
バビロンの空中庭園
ネブカドネザル二世は度重なる遠征で富を増やしました。
その富を使い、さらにはユダ王国から強制移住させた多くの建築家によって「バビロンの空中庭園」と呼ばれる庭園を造りました。
この「バビロンの空中庭園」は古代ギリシア時代の「世界七不思議」の一つとされており、ネブカドネザル二世から妻への贈り物として考えられております。
しかし、地震の被害により今は残っておらず、その姿を確認することはありませんでした。
図:バビロンの空中庭園の想像図。遠景にバベルの塔が見られる。
引用:Wikipedia
この空中庭園は、階段状に何層も庭園があり、人工の灌漑システムが組み込まれていました。
ネブカドネザル二世がこの庭園を造ったのは、妻が故郷の庭園や森を懐かしがっていたためと考えられています。
バビロン捕囚の解放
ネブカドネザル二世によるユダヤ人の支配は長く続きませんでした。
アケメネス朝ペルシアのキュロス二世によってバビロンが攻撃され、ネブカドネザル二世は負けてしまいました。
それにより、キュロス二世はユダヤ人を解放し、ユダ王国への帰還と神殿の再建を促しました。
さらには、戦利品としてバビロンにあった器物を奪い、それを神殿の再建のために使うことにしました。
こうして、約50年のバビロン捕囚が終わりを迎えました。
この解放によりユダヤ人は祖国に帰還することになりました。
この「バビロン捕囚」はユダヤ人にとって大きな意味を持っているそうです。
ユダヤ人たちは、この捕囚を経て民族形成を強めることになったと考えられています。
ネブカドネザル二世の最期
旧約聖書によると、ネブカドネザル二世はその後発狂したとされています。
彼は、社会から追放され、人間としてまともに生きていくことができなくなったのです。
正気を失ったネブカドネザル二世は、紀元前562年ごろバビロンで死去しました。
彼が行ったことは非常に残酷だったのですが、妻のために美しい庭園を造ったことに関しては、尊敬の念を抱こうと思います。
愛のためにそのような大業を成し遂げる姿は見習おうと思います。
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毎日1偉人 一神教の創始者「アクエンアテン」
こんにちは!Amatoです。
最近順調に5時起きを習慣化できてきました。
本日の毎日1偉人は、
一神教の創始者「アクエンアテン」です。
図:アクエンアテンの胸像
引用:Wikipedia
アクエンアテン(紀元前1362頃~紀元前1333頃)
アクエンアテン(アメンヘテプ四世)は、古代エジプト王の一人で、世界初の一神教の創始者と考えられています。
多神教が広く崇拝されている中、唯一神を信仰する新しい宗教を広めようとしました。
古代エジプトの宗教
古代エジプトの宗教は、紀元前3000年頃からおよそ3000年続いたとされてきました。
長い間崇拝され、さらにエジプト各地に広まったため、各時代、地域で様々な差異が見られています。
エジプトの王を神格化した人物神や、自然現象などを神格化した自然神など多様な神が存在します。
その中には、生産の神オシリスや戦いの神ホルス、太陽の神ラー、冥界の神アヌビスなどの神が含まれています。
いくつか名前だけは知っている方も多いと思います。
また、その中には以前紹介した「イムホテプ」も入っています。
多くの神は、動物の姿、もしくは動物の頭を持つ人間の姿をしていました。
この神々を崇拝するために、エジプトの各地に神殿が建てられました。
さらに、これらの神々に仕える聖職者や神官は、強い権力を持っており、エジプトの神権政治を統治していました。
アクエンアテンによる宗教改革
アクエンアテンは、これらの神々を否定し、唯一神のアテンを祭る新宗教を始めました。
新宗教を始める前はアメンヘテプ四世という名でしたが、「太陽神アテンに仕える者」を意味する「アクエンアテン」に自分の名前を改めました。
この一神教を広めるために、多くの神殿の取り壊しも命じました。
彼がこの新宗教を始めたのには、目的がありました。
その目的は、自らの政治の権力を強めるということでした。
唯一神アテンに仕える神は自分だけだと主張し、当時大きな権力を持っていた聖職者たちの権力を弱らせたのです。
それにより、自らの王権を強めようとしました。
さらに集中させるために、アクエンアテンは砂漠に新たな都市アケトアテンを建設し、当時の首都テーベからそこへ首都を移しました。
このように自ら創始した宗教を広めるために様々な活動を行いました。
アクエンアテンの死後
アクエンアテンは、およそ17年間もの間王位に就き、新宗教を広めてきました。
しかし、民衆たちはアテン神を心から信仰してはいませんでした。
アクエンアテンの死後、エジプト王は息子のトゥトアンクアテン(ツタンカーメン)が即位しました。
トゥトアンクアテンは、弱体化された神官たちの圧力に屈してしまったのです。
それにより、首都がもとのテーベに戻り、数年のうちにアテン神は完全に拒否されてしまったのです。
アクエンアテンは、革新者として考えられています。
自らの実権を強化するために、新しい宗教を創始し広めようとしました。
彼が創始した宗教は、唯一神を崇拝する一神教信仰の原型として考えられています。
彼の王権強化の目的を達成するために発想した手段は、素晴らしいものだと思います。
今までの常識を覆すことを成し遂げたアクエンアテンは、非常に独創的だと私は思います。
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毎日1偉人 ヘブライ人のヒーロー「モーセ」
こんにちは!Amatoです。
本日も早起きできました!
本日の毎日1偉人は、
ヘブライ人のヒーロー「モーセ」です。
図:モーセ像
引用:Wikipedia
モーセ(生年不明)
ホメロスは旧約聖書の中心人物の一人です。
彼はエジプトの王の圧政からヘブライ人を解放しました。
旧約聖書と現実
旧約聖書に描かれているモーセに関する記述で、歴史的に証明できるものはほとんどありません。
120歳まで生きたとされていますが、実際にその歳まで生きたとは考えづらいですね。
実在したとすると、モーセはエジプトの当たりで紀元前1200年から紀元前1500年の間に存在したと考えられています。
彼の行いは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの多くの宗教に影響を与えました。
モーセがヘブライ人に伝えた戒律は、それらの宗教の道徳の規範となっています。
エジプト王の圧政
モーセが生まれたエジプトでは、王の命令によってヘブライ人の男児は殺さなければなりませんでした。
王がヘブライ人が増えるのを恐れたからです。
モーセもそのヘブライ人の一人でしたが、母親はモーセを殺すことなく隠れて育てることにしました。
しかし、のちに隠し切れなくなり、母はモーセをナイル川に流して逃がすことにしました。
ナイル川に流されたモーセは、エジプト王の娘の一人に見つけられ、エジプト人として育てられることになりました。
モーセを変えた事件
エジプト人として育ったモーセはある日、ヘブライ人がエジプト人に虐待されている場面に出くわしました。
その時、モーセはエジプト人を止めようとしたところ、その虐待していたエジプト人を殺害してしまいました。
このことが王の耳に入り、モーセはエジプトから追われる身となり、エジプトにいられなくなりました。
彼はエジプトを離れ、現在のアラビア半島にあるミディアンの地で生活することになりました。
ある日、モーセの前に神が現れ、ヘブライ人をエジプトから解放せよという使命を与えました。
ヘブライ人の解放
神から使命を受けたモーセは、兄のアロンとともにエジプトに戻りました。
二人はエジプト王の前に現れ、ヘブライ人を解放するよう願いましたが、エジプト王はそれを断りました。
その時、神は「十の災い」をエジプトにもたらしたのです。
それにより、ナイル川の水が血になったり、疫病が流行したりしました。
このことから、エジプト王はモーセの願いを聞き入れざるを得ない状況となり、折れることになりました。
それにより、モーセら二人はヘブライ人を解放することに成功し、祖先の地へと導いていくことになりました。
エジプト王の追撃
モーセらがエジプトから逃げた後、エジプト王は軍勢をヘブライ人に差し向けました。
その軍勢によって、海に追い詰められたとき、モーセは杖を使って道を切り開きました。
引用:Calvary Pilot
モーセが杖を振り上げると、海が割れ道ができたのです。この海が割れるシーンは知ってる人も多いと思います。
モーセの力によってヘブライは逃げることができ、それを追おうとしたエジプト軍は海に飲み込まれてしまいました。
モーセの最期
ヘブライ人たちがエジプトから逃れ、40年経ち祖先の地がもうすぐというところまで来ることができました。
しかし、ある問題が起きました。
それは「水」の問題です。
生命を維持するための「水」が無くなってしまったのです。
その問題を解決するために、モーセは杖の力を使いました。
その時、焦っていたモーセは、不正に杖の力を使ってしまったのです。
そのことが神を怒らせ、罰としてモーセは祖先の地に入ることを禁じられたのです。
モーセは祖先の地に帰る寸前に、ピスガ山で死去しました。
モーセは、ヘブライ人を解放すべくエジプトに対抗し、見事ヘブライ人を解放することに成功しました。
しかし、焦っていたあまり、神の罰を受けることになりました。
このことから、いついかなるときも焦ることなく、冷静に事を進めていかなければならないことを学びました。
しかし、多くの民を解放し、約束の地へと導くことができたモーセは、まさに偉人といえるでしょう。
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